実は判明していた、函館の七夕「ローソクもらい」と「大いに祝おう」の謎

毎年七夕が近くなると「函館の七夕は函館独自なのか」「『大いに祝おう』なのか『多いは嫌よ』なのか」など函館の七夕に関する疑問がSNSなどでよく見られます。そこで、「函館の七夕の由来」について簡単にまとめてみました。

※この記事は、2008年に筆者が書いた記事を加筆・修正して2017年に公開した記事(下記リンク先)をさらに加筆修正したものです。

あの新施設もお菓子工場も大盛況、函館・七夕点描(2017年)
北海道ではほとんどの地域で8月7日が七夕ですが、函館は7月7日。このサイトは9割以上地元の方にご覧いただいているのであらためて説明するまでも...
▼そもそも函館の七夕とは

地元の方には説明するまでもありませんが、子どもたちが家々や店などを巡って歌を歌い、お菓子をもらう「ローソクもらい」と呼ばれる行事が行われます。お菓子をもらう時の歌は、「竹に短冊七夕祭り 大いに祝おう ローソク一本ちょうだいな」。


▲飲食店や居酒屋などもお菓子を用意して子どもたちを待っていることが多い

▼そんな函館の七夕の由来とは

幕末に書かれた『箱館風俗書』という書物には、当時の箱館の七夕の様子が次のように説明されています。
『寺子屋の子どもたちが前日から師匠のところに集まって小さな灯篭と短冊をつけた竹を掲げ、太鼓や笛を鳴らしながら町を歩く。7月7日の昼頃には灯篭を海に流す』(意訳)

別の箇所には、もっと詳しい様子が記されています。

『笛・太鼓・三味線などの囃子方30人余りを乗せる大きな灯篭(=山車)を作り、さらに竹の骨組みに紙を張った像を載せ、彩色を施して夜は数百のろうそくを灯す。虎、象、孔雀、鯛などの動物や英雄・勇婦の姿など、像の形は様々。これを数十人から100人ほどで引く。幅は2.7~5.4m、長さは5.4~9mにもなるため、道幅が狭いところでは大変に混雑し、しばしば殴り合いまで起こる。

数十人で肩に担いで歩く中型の灯篭もある。大中合わせて30~40、多い年には50~60基が市中至る所を練り歩く。このほか、美しい衣装をまといお化粧をした少年少女が50~100ほどの隊となり、太鼓や笛に合わせて「豊年万歳」と唱えながら数百から1000にも及ぶ小灯篭を手に市中を歩く

6日夕方から7日昼にかけては、人々が皆狂ってしまったかと思うほど。一年を通して最もにぎわうのがこの七夕まつりだ(実に一年中の賑ひ此七夕祭りを以て最盛とするものなり)』(意訳)

竹の骨組みに紙を張って像を作り、それを山車の上に載せて練り歩くというのは、現在の青森ねぶたそっくり。『函館・道南大事典』(国書刊行会)や函館市史銭亀沢編も、これをねぶたであると断定しています。その頃に津軽で行われていたねぶた祭りの様子を記した記録などとも類似しており、江戸後期の箱館では七夕の日にねぶた祭りを行っていたのは間違いないようです。

▲江戸時代の箱館では、現在の青森ねぶたと同様の手法で「灯篭」に据える像が作られていた(現代の青森ねぶたは竹の代わりに針金を使用)

▼「ローソクもらい」はねぶた用だった

『箱館風俗書』にもあるように、竹と紙で作った大小の灯篭(ねぶた)は、ろうそくで灯りを灯していました。家々を回ってねぶたに灯すろうそくを集めるのは、子どもたちの仕事でした。つまり、これが七夕における「ローソクもらい」の本来の意味です。

江戸時代には「一年で最もにぎわう祭り」とされた箱館の七夕ですが、ねぶたを乗せた大きな山車を引いて市中を練り歩く風習は大正時代までにはかなり廃れ、昭和初期までのどこかの時点で消滅したようです。しかしながら、1970年代頃までは七夕の日に子どもたちが家々を回って文字通りろうそくを配る・もらう風習が残っていたようです。当時の子どもたちは空き缶で作ったカンテラや提灯を手にして家々を回っていたことが多かったようなので、ろうそくを配る・もらうのは自然な流れだったことでしょう。

その後次第に「ろうそくとお菓子」を配るようになり、90年代に入る頃にはほぼお菓子だけが配られるようになったようです。これには、カンテラや提灯が(おそらく安全性の問題などで)用いられなくなったことにより、ろうそくを配る・もらう意味がなくなったことも関係していると思われます。文字通りのろうそくが配られなくなってしばらく経ちますが、今も「ろうそく一本ちょうだいな」の歌詞がもともとの風習の名残をとどめています。

▼「大いに祝おう」なのか「多いは嫌よ」なのか

江戸時代の箱館の七夕において、大きな灯篭(ねぶた)を引くときにはみんなでお囃子を歌いながら引いていたようです。幕末の記録『松前紀行』には、『お囃子の前半はそれぞれ(灯篭によって)異なるが、後半はどれもオオイヤイヤヨという』(意訳)とあります。一方、松浦武四郎が幕末に松前藩の様子を記した『秘女於久辺志(ひめおくべし)』には、七夕には子どもたちが師匠の家に集まり、太鼓や笛を囃し立てて「七夕祭ホウイヤイヤヨ」と市中を騒ぎ回るとあります。

つまり、大きなねぶたを引く時の囃子ことばも、子どもたちが小灯篭を手に市中を練り歩く時の掛け声も「オオイヤイヤヨ」ないしは「ホウイヤイヤヨ」であったというわけです。

この「オオイヤイヤヨ(ホウイヤイヤヨ)」のお囃子が、函館の「ローソクもらい」の歌詞の一部となりました。

ところが、前述の通りねぶたの行事がなくなったことにより、「オオイヤイヤヨ」がもともと囃子ことばであったことは人々の記憶から忘れ去られていきます。その後「多いは嫌よ」「追いは嫌よ」などと解釈されるようになり、これがさらに転じて、現在一般的に歌われている「大いに祝おう」として定着したようです。

ですから、「大いに祝おう」なのか「多いは嫌よ」なのか論争の答えは、「どっちでもない」と同時に「どっちでもいい」となります。もともとの「オオイヤイヤヨ」が単なるお囃子で意味のない言葉である以上、「大いに祝おう」と「多いは嫌よ」のどちらが正しいのかを論じることには意味がないといえます。

【2019年7月5日追記】複数の読者さまから、1980~90年頃まではまだ「オオイヤイヤヨ」という掛け声として認識して歌っていたとする情報と、すでにその頃には「多いは嫌よ」と歌っていたとする情報の両方が寄せられました。さらに、当時すでに親から「覆いは嫌よ(おそらく、顔を覆って見ぬふりをするのはやめてという意味)」と教わったとする情報もあります(=ひとつ前の世代から伝わっている)。また、どう発音するのが正しいかよくわからず、なんとなくみんなに合わせてそれらしいことを歌っていたとの声も結構あります。総合すると、七夕の歌の歌詞がひとつに定まっていない時代が少なくとも30年(1960年頃~90年頃)、もしかしたらもっと長い期間(1960年頃よりもっと前から)あったと考えられます。「大いに祝おう」は比較的近年(平成に変わる頃かそれ以降?)に小学校の指導によって定着したようです(間違っていたらご指摘ください)。

江戸時代から伝わるこの由緒ある風習は現代でも「ローソクもらい」と呼ばれ、函館市では「七夕飾りのある家だけを訪問すること」などの小学校の指導のもとに伝統行事として守り伝えられています。

▼函館の七夕は本当に独特なのか

なお、「函館の七夕はハロウィンに似ている」「函館の七夕は独特」との表現をよく見聞きしますが、これらの表現はあまり正確ではありません。七夕における「ローソクもらい」の行事は函館独自のものではなく、かつては道内各地に存在したといいます。過疎の影響や都会化、治安の問題などにより廃れた地域も少なくありませんが、決して「函館だけが特殊」なわけではなく、今も幾つかの町で行われています。

どちらかといえば、「北海道の七夕はハロウィンに似ている(似ていた)」「北海道の七夕は独特」と表現するほうが適切でしょう。

ただし、七夕の日に子どもたちが家々を巡ってろうそくを集めるという風習そのものも、実は北海道独自のものではなく、一部東北地方でもその存在(もしくはかつて存在したこと)が確認されているようです。道内外の他の地域ではすでに廃れていたり、函館ほど盛んではなかったりするため、函館市民も他地域の人も「函館独自の文化だ」と勘違いしてしまいがちですが、「函館の七夕はどこにもない独自の風習」といったような表現は、事実に反しており正確ではありません

函館(と一部周辺地域)の七夕に特異性があるとすれば、

・「竹に短冊七夕祭り 大いに祝おう ローソク一本ちょうだいな」の歌詞とメロディーが他の地域とは全く違う(注)

・地域での定着ぶりがすごい(=他地域では廃れた所も多いのにバリバリ残っている)

この2点と言えるのではないでしょうか。

(注)札幌をはじめとした他の地域では、「ろうそく出せ出せよ」で始まる歌が一般的です。北海道新聞2017年7月7日付夕刊「みなみ風」には、松前町では「ろうそく出せ出せよ」の歌が歌われており、「(道内の他の地域では)松前の歌詞に似ているところが多くみられます」とありました。

スポンサーリンク


参考文献などリンク

函館市史 銭亀沢編 第四章第八節二 儀礼伝承の定着と混合 「ネブタ」の項

「松前紀行」 (函館市中央図書館デジタル資料館)

山崎福太郎(2013)『函館市の七夕行事「ローソクもらい」の実態』

道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログ「秘女於久辺志の松前」

その他函館市中央図書館閉架資料を参考にしています

The following two tabs change content below.
佐々木康弘

佐々木康弘

ライター、時々カメラマン。物を書いたり写真を撮ったり、それらを編集したりすることを仕事にしています。函館市内と近郊で、年間100件ほどのイベントに足を運んでいます。編集企画室インサイド代表。