あの新施設もお菓子工場も大盛況、函館・七夕点描(2017年)

函館の七夕の由来についてまとめた下記の文章は幾つかの個人ブログなどに転載されていますが、元は2008年に筆者がインターネットで発表したものです。今はそのサイトが消滅しているため、加筆修正したうえであらためて掲載しておきます。

幕末に書かれた『箱館風俗書』という書物には、当時の七夕の様子が次のように説明されています。
『寺子屋の子どもたちが前日から師匠のところに集まって小さな灯篭と短冊をつけた竹を掲げ、太鼓や笛を鳴らしながら町を歩く。7月7日の昼頃には灯篭を海に流す』(意訳)。

『函館・道南大事典』(国書刊行会)によると、これはねぶたの風習であるとのこと。江戸後期の箱館では、ねぶた祭りと七夕が一緒に祝われており、各家庭でも大小のねぶたを竹と紙で作っていました。
当時は、家々を回ってねぶたに灯すろうそくを集めるのが子どもたちの仕事だったそうです。

函館のねぶた祭りは昭和初期までのどこかの時点で消滅しましたが、1970年代頃までは七夕の日に文字通りろうそくを配る・もらう風習が残っていたようです。当時の子どもたちはカンテラや提灯を手にして家々を回っていたことが多かったようなので、ろうそくを配る・もらうのは自然な流れだったことでしょう。

その後次第に「ろうそくとお菓子」を配るようになり、90年代に入る頃にはほぼお菓子だけが配られるようになったようです。これには、カンテラや提灯が(おそらく安全性の問題などで)用いられなくなったことにより、ろうそくを配る・もらう意味がなくなったことも関係していると思われます。文字通りのろうそくが配られなくなってややしばらく経ちますが、今も「ろうそく一本ちょうだいな」の歌詞がもともとの風習の名残をとどめています。

ちなみに、大きなねぶたを引くときの掛け声は「オオイヤ、イヤヨ」であったと幕末の記録『松前紀行』にあります。これが函館の「ろうそくもらい」の歌詞の一部となっていますが、ねぶたの行事がなくなったことにより掛け声としての意味が忘れられ、「多いは嫌よ」「追いは嫌よ」などと解釈されるようになりました。現在は「大いに祝おう」として定着しているようです。

江戸時代から伝わるこの由緒ある風習は現代でも「ろうそくもらい」と呼ばれ、函館市では「七夕飾りのある家だけを訪問すること」などの小学校の指導のもとに伝統行事として守り伝えられています。

これらの情報については、函館市中央図書館の2階で「函館の七夕について調べたい」と申し出ると関連する資料を閲覧できるため、誰でも簡単に確認できます。ただし、もらう物がろうそくからお菓子に変化した部分については、地元の皆さんからの情報をもとにしました。

なお、「函館の七夕はハロウィンに似ている」「函館の七夕は独特」との表現をよく見聞きしますが、これらの表現はあまり正確ではありません。七夕における「ろうそくもらい(という名のお菓子もらい)」の行事は函館独自のものではなく、かつてはほぼ道内全域に存在したといいます。過疎の影響や治安の問題などにより廃れた地域も少なくありませんが、決して「函館だけが特殊」なわけではありません。「北海道の七夕はハロウィンに似ている(似ていた)」「北海道の七夕は独特」と表現するほうが適切でしょう。

函館(と一部周辺地域)の七夕に特異性があるとすれば、

・「竹に短冊七夕祭り 大いに祝おう ローソク一本ちょうだいな」の歌詞とメロディーが他の地域とは全く違う

・地域での定着ぶりがすごい

この2点と言えるのではないでしょうか。

札幌をはじめとした他の地域では、「ろうそく出せ出せよ」で始まる歌が一般的です。参考までに、北海道新聞2017年7月7日付夕刊「みなみ風」には、松前町では「ろうそく出せ出せよ」の歌が歌われており、「(道内の他の地域では)松前の歌詞に似ているところが多くみられます」とありました。

参考までに、函館の七夕の歌が聞ける動画▼

▼ほかにもいろいろなお店で……






浴衣を着た子どもたちが街にあふれる日。これからも大切に残っていって欲しいですね。

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佐々木康弘

佐々木康弘

ライター、時々カメラマン。物を書いたり写真を撮ったり、それらを編集したりすることを仕事にしています。函館市内と近郊で、年間100件ほどのイベントに足を運んでいます。編集企画室インサイド代表。